日本でチャイナ服と呼ばれている服は中国では旗袍と呼ばれている。中国の服装歴史の中で多種多様の服飾がみられるが、もっとも傑出したものは旗袍(チーパオ)の出現とその普及であった。旗袍は本来満州族の服装である。
なぜ旗袍と呼ぶか?
もともと満州族は8種類の色の旗を使って軍隊を分けたところから満州族の衣装のことを旗袍と呼んだ。彼らの袍服(服装の一種)を旗袍と呼んだのである。
満州族の旗袍
満州族の旗袍は長袍とも呼ばれており、日常に着用する普段着でした。しかし金持ちと貧富の差というものをスカートのスリットの長さで分けおり、金持ちの人はスリットを開けて、貧しい家の人はスリットを全く開けてなかった。図のようにゆったりした衣装で、袖も広がったもので、スカートの長さも足の甲のところまでくるものであった。これは満州族が騎馬民族で馬に乗ったり狩をするために動きやすいためだった。満州族の女性は男性と同様、狩にでて馬に乗っていた。
旗袍が中国に広まったのは?
清朝が政権を握り満州族の貴族が中国を統治するようになると、漢民族に対して自分たちの服飾の制度に改めるよう強要した。結果、伝統的な冠免衣裳はほぼ全面的に着用が禁止され、もっとも盛大な典礼時にはすべて旗袍を着用しなければならなかった。清朝末の旗袍(下写真)
旗袍の流行の流れ
1920年以前は旗袍は満州族の服飾であったが、20年代以降になると、漢民族の女性もこれを着用しはじめ、絶え間なく改良を加えて、ついに独特の趣を備えた女性の服飾を作り上げた。この時期の旗袍は袖口が次第に狭くなり、縁取りは以前のように太くなくなりました。20年代末になると欧米の影響を受けて、丈場短く、腰回りがフィットするようになってきました。
30年代になると、高い衿が流行りだしました。衿は高ければ高いほど流行の先端とされ、盛夏には、蝉の羽のような薄さの旗袍にも必ず耳にまで達する硬い衿がつけられた。その後、低い衿の流行に移り、低ければ低いほどモダンとされた。そして、それ以上低くできなくなると、ついに衿はなくなってしまった。40年代になると共産主義の統治下となり
袖の変化も同様であった。長い袖が流行した時期には、手首まであったが、短い袖が流行しだすと、肘を露出するまでになった。旗袍の丈についてはさらに大きな変化があった。ある時期に流行した旗袍は、道を歩くと地を擦るほどの長さであったが、以後、短式に改良され、通常は膝上となった。40年代から始まる旗袍の様式は次第に簡便になっていき、丈と袖の長さの短いものが多くなった。また衿も低めに改められた。
40年代の共産党の支配により、中国女性は旗袍から青とグレーのスーツに身をまとうようになった。 その後の中国の市場開放により海外との交流も盛んになり、中国の女性は西洋の洋服を好むようになったが、いまだにお正月や結婚式は旗袍を着用している。
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